「白か、黒か」?

ネット上に言説を垂れ流す際の「御作法」としては、とりあえず自分の立場をわかりやすく決め付け、規定しなければならないようだ。右か、左か。賛成か、反対か。


今日、山口県光市の母子殺害事件の最高裁判決が出た。判例主義の問題等、様々な論点があるようだが、恥ずかしながら勉強不足の僕には、ごくごく基本的なことしか解らない。ただ、とにかく最も重要な論点となっているのは、死刑のことだ。犯行当時少年だった被告への死刑判決。無期懲役の判決を最高裁が差し戻したということで、死刑になる公算が高いと言われているようだが、どうなるのだろうか。

さて、このようなことを語る際には、まず死刑制度に対して賛成なのか反対なのかをはっきりさせなくてはならないのだろう。しかし僕は恥をしのんで言いたい。僕は賛成なのか反対なのかを、自分の中ではっきりさせることがいまだに出来ていない。

ただ一つ思うこと。「遺族感情を考えれば〜」という、一部の死刑賛成論者の安易な言い方には違和感を感じる*1。遺族感情って、そんなに簡単に理解できるものなのだろうか。僕はそうは思わない。今回の事件でも、被害者の母子の夫(父)の悲痛な叫びを見れば、もちろん胸に突き刺さるものがある。涙さえ流れそうになる。それは人として自然なシンパシーの発露だろう。だけど、それをもって「遺族感情がわかる」などとは、僕には口が裂けても言えない。

冷たい言い方と取られるかもしれないし、語弊を呼ぶかもしれないが、「凄惨な事件が起こった。幸いながら、僕は被害者ではない(そして加害者でもない)」というのが、自らの立場について考えた場合の正直な気持ちだ。実際、関わりの無い全ての人はそうだろうと思う。正義ヅラをしたい者はするがいい、だけど僕には、どうひっくり返ってもそれ以上の認識ができない。

これは、決して無関心というわけではない。第三者である者は、第三者としてきちんと考えねばならないということだ。安易に被害者に(加害者に、という場合もあるのだろうか…)「感情移入もどき」をして、半ばストレス発散のようにして何かを叫ぶのではなく、第三者という立場だからこそできるとらえ方でとらえ、考え方で考える。それが私たち「幸運な者たち」が社会に対してすべきことなのではないか、と思うのだ。


それに則って考えているのだが、しかし、僕にはまだ色々なことがわからない。「色々なことがわかっていない(勉強しなければならない)」ということへの認識があるだけ、ある種の人々よりは随分マシだと思っているのだが、何のなぐさめにもなるまい、とも思う。もっと頭を、心を働かせなければならない。

*1:安易でない意見も多くありますよ、もちろん。念のため