「できちゃった結婚」という言葉

はてなキーワード」によると、この言葉は以下のように定義されるらしい。

妊娠してからする結婚のこと。
最近では「ママリッジ」とも言うらしい。
アメリカでは「ショットガン・マリッジ」。
類語:できちゃった婚、できちゃった、中出し婚

あまりよくわからない。だいたい「言うらしい」とはなんたることか。情報量が少ない。といいつつ、編集するつもりなど無いけど。
そこで、Wikipediaに情報を求めてみる。「できちゃった結婚」-Wikipedia。ふむふむ。言葉が発生してきた経緯を含め、結構わかりやすい。


で、非常に個人的な印象ではあるが、「できちゃった結婚」という言葉には多分にマイナスのイメージが込められていると思う。軽薄、思慮の浅さ、というようなニュアンスが多分に含まれている。「〜ちゃった」という日本語を使っているところにそれが表れているだろう。

しかし、多くの「時の洗礼を十分に受けていない」用語に言えることであるのだが、この言葉も「その言葉がどのような意味を持つのか」が十分に考慮されないままに使われることが多い。今や、基本的に結婚以前の段階で妊娠していればそれは全て「できちゃった結婚」とされる。その際そこにどのような思慮があったのか(あるいは無かったのか)、当事者たる二人はどのような未来図を描いていたのか(あるいは描いていなかったのか)、そういったことがらは全て無視される。芸能人の妊娠・結婚が報道される際、スポーツ新聞などでない一般の新聞も、今やこぞって「できちゃった結婚」という言葉を使う。

もちろん、「どんな考えがあったにしろ、『婚前交渉→妊娠→結婚』というのは全てふしだらで軽薄な行為であり、『できちゃった結婚』という言葉が含むニュアンスそのままを当てはめられてしかるべきだ」という考え方も一つの態度だろう。

だけど、たとえば入籍をせずに事実婚状態で結婚生活を営むといった形式も今や社会に受け入れられつつあるし、「婚前交渉=ふしだら」という、日本的価値観に照らして大雑把に言えば「古い」考え方(この文脈では、これを否定しているわけでは無い)は大勢を占めなくなってきている、と感じる。「感じる」とかいう曖昧な表現で不足があるなら、たしか少し前に東京地裁判例で「非嫡出子」に関する画期的なものがあったと思うのだけど、それを引き合いに出すことも出来る。「非嫡出子」を「嫡出子」と同じく「長男」「長女」のように戸籍に記すべしという内容である。「嫡出子」と「非嫡出子」の間の差別問題に一石を投じた、画期的な判断であったと思う。


まあ「親の意識」の問題と「生まれてきた子供が被る差別」の問題というのは別ではあるのだが、大雑把に見て、やはり婚姻・妊娠・出産をめぐる日本社会におけるリスペクタビリティというのはかなりフランクな方向に転換してきている、と思う。そんな中で、婚前妊娠への「できちゃった結婚」という言葉によるネガティヴなレッテル貼りというのは完全に逆行していて、不思議なねじれ現象であるなあ、と感じる。


ここで、この呟きは唐突に半ば暴論風に幕を閉じるのだが、「できちゃった結婚」が大々的に取り上げられるのは芸能人の結婚に関してである。この場合の「ねじれ現象」には芸能人に対する「チャラチャラしやがって」というやっかみをどうしても感じる。頑固一徹な倫理観というものは感じられないのである。完全に印象論で説得力の欠片も無いのだが(苦笑)、絶対そうだ。そうでなければ、このねじれ現象の説明がつかない。どう考えても、友達とか近しい人の「妊娠結婚」に対する一般的な態度と完全な乖離があるのだ。特に(僕も含めた)若い世代に関して。


だけど、プライヴェートな恋愛すら何か悪いことをしたかのごとく「スキャンダル」として取り上げられる芸能人という立場の人々は、結婚の際に妊娠という既成事実を作ってしまうことが必要だったりもするのではないだろうか、と思う。もちろん妊娠を手段としてしまうことはけしからんことなのだけど、そうではなくて、「二人は一生を共にしようと既に決意していて、普通なら妊娠する遥か前に結婚していたはずなのに、芸能人だからそれが出来ず、妊娠という事実の重みを添えた上でようやく結婚にこぎつけた」という場合だってあるのだと思う。そんな場合の妊娠は「できちゃった」と呼べるような妊娠なのだろうか。そんな言い方は、それこそ生命を軽く見た浅はかな態度と言えるのじゃないかと思うのである。



大好きな飯田圭織さんの妊娠・結婚という報を受けて、久々に更新してみました。
もう一方のヲタブログに詳しく書いたのだけど、心から祝福したいと思います。