エンジョイ・スポーツ

僕はスポーツ観戦が好きで、結構何でも見る。サッカーや野球だってもちろん見る。

幼い時分などは、テレビの中でスポーツをしている「プロのひとたち」は我々普通の人間とは全く違う世界の人たちなのだろうと思っていた。だが、少し成長してからそうではないということに気付いた。彼らだってナーヴァスにもなるし、精神状態によってプレーが著しく変化する。というより、「一流」と呼ばれるような人々の闘いは、多分9割以上は精神的な部分にあるのだろうとすら思う。「力を出し切れば勝てる」のだ。問題は「如何に力を出し切るか」。緊張、焦り、興奮、そういった様々な感情の動きを飲み込んでパフォーマンスを発揮し、勝負を賭ける姿は美しい。それに気付いたとき、スポーツ観戦は僕にとってより一層面白いものとなった。

スポーツ選手に「同じ人間なのだ」ということを感じさせてくれたのは、以前にも書いたことだが、幼い頃ジャイアンツの練習場を見学に行ったときに気さくに接してくれた原辰徳だ。良くも悪くも、情にもろかった巨人軍の4番。その原が率いる、つまり僕が応援するジャイアンツは、目下ドン底状態。ついに8連敗だ。我慢強く観戦していてよくわかるが、如何に主軸が怪我をしていても、そんなに負けまくるほど戦力が落ちているわけではない。具体的なことは言えないけれど、精神的に「負けモード」になってしまっているのだ。決して勝負を投げているわけではないのに、プロならば当然のように出来そうなプレーができない。

だけど「プロだから出来て当然」ではないのだ。その「出来て当然」と思われがちなことを、如何にきっちり達成するか。その過程、精神の戦いに、人間同士が技を競う醍醐味があるのだ。「出来て当然」という前提でスポーツを観てしまったら、観戦の醍醐味は半減どころか、9割以上無くなってしまうだろう、というのが僕の考えだ。

戦術を知ることももちろん大切だ。だが、僕にとってそれは、「その瞬間、選手の脳裏に何がよぎっているのか」「その刹那、どのような決断がどのような覚悟で行われたのか」をイメージするための材料に過ぎない。具体的に言えば、「1点を追う9回裏、1アウトランナー1塁・3ボール1ストライクで内角低めの速いストレートを振り抜くとき、そこにはどんな決断が存在するか?」とか、そのようなことに思いを馳せたいのだ。僕にとっての問題は例えば「何故高原はあそこで思い切ってシュートに行けなかったのか!?」だ。「あそこで打たなかったのはFWとして失格だ」なんて切り捨てたら、そこで終わってしまう。別に高原を擁護するわけではないけれど(だって、「打ってくれよ!」と思うからそういう疑問が沸くのだし)。


スポーツの楽しみ方は数あろうけれど、僕はこのような楽しみ方をオススメしたい。例えば世界的な大会が行われて、それがただのスポーツ大会の域を超えてある種の社会現象を呼び、それにある種の反撥心を呼び起こされたとしても、そんなこととは無関係に目の前にある比類なき精神の駆け引きを楽しむことができるわけだしね。