日の丸・君が代
僕の政治的立場はさておくとして、一つの曲として聴けば『君が代』はとてもいい曲だし、一つのデザインとして「日の丸」は素晴らしいと思う(この記事のカテゴリに注目してほしい)。
先日そのような話を友人としていて、友人から「君が代ってもともと恋の歌なんだよね」という話を聞いた。恥ずかしながら、その話は全く聞いたことが無かった。なるほど、確かにそのようにも読める。
君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
いわおとなりて
こけのむすまで
恋の歌として見れば、とてもとても熱烈な詞であると感じる――多少品が無いようにも思うが。しかし恋、特にこのように一方的に思いを寄せる恋などは、上品ぶってなどいられないような気持ちになるものだ。それはそれでいいのかもしれない。
色々と調べてみたが、諸説存在する中に、確かにもともとは恋の歌であるとするものがある。Wikipediaによくまとめられている。なかなか興味深い。ところでこれが「三十一文字」であること(字余りはあるが)にも僕は今まで気付いていなかった。お恥ずかしい。
ちなみに僕の場合、小学校の音楽の教科書の最後に『君が代』が掲載されていた記憶がある。低学年の頃などは、タイトルが『きみがよ』のように平仮名で書かれているため逆に意味がわからず、「君がヨォー」という実に粗野な言い回しであると受け取っていた。それが「国のうた」であるらしいということが疑問でならなかった。本当の話だ。我がことながら、子供は本当に突飛なことを考えるものだ。
メロディについても「暗い」という意見があるが、僕はわりと好きだ。他国の国歌などは基本的に軽快なメロディに乗ったものが多い。場合によっては過激ですらある*1。しかし「勇壮」な歌はよく聞くが、「荘厳」な感じの歌というのはあまり聞かない。個性があっていいじゃないか、と思うのだが、これは軽薄な意見と取られるのだろうか。こういう一面を見ることは必要だと思うのだが。
「日の丸」について。こちらはさらに起源が曖昧であるようだが、かなり昔から使われていたようだ(こちらもWikipediaなどを参考にした)。確かに聖徳太子が隋の煬帝に送った手紙(「日出処…云々」)にも、既にその片鱗が感じられる。
小さい頃、世界地図の横についている「世界の国旗」を飽きもせず色々見ていた記憶があるが、日本ほどシンプルで力強いデザインは見当たらなかった*2。ずいぶん自己主張が強いデザインであるような気もするが、しかしすっきりしていていいデザインだと思うのだ。デザインとして、ね。
政治的問題としての、所謂"ひのきみ"問題について、きちんとした知識のもとに意見を持つことは大切だ。しかし、問題は曲・デザインそのものではなく、遥か昔から存在していたそれらを「誰が・どのように利用してきたか(そして現在しているか)」だ。たとえば「国旗・国歌法」に反対する立場は非常によく理解できる(僕も大別すればそちらに含まれる)のだが、そのあまりに「曲・デザインそのもの」をヒステリックに憎んだり軽視したりする態度は、文化に対する軽視であると思う。「君が代を英語で歌おう」などというのも*3、ジョークとしては面白いと思うが、真面目に政治的な意味を込めるような価値のあるものではない。
単純な「反体制」はどうも古臭いと思う。「『奴ら』に反対!」だけを叫んで、「『私』はこうしたい!」を叫ばない人たちが多いうちは、問題は解決しないだろう。僕がどうしたいのかは、読めばわかってもらえるように書いたつもりなのだが、はてさて。
もうすぐサッカー・ワールドカップが開幕する。『君が代』が何度も流れることになるだろう(4度以上であることを願う)。何らの裏の意味も無い「ただの感想」だが、昔テレビで見た日本代表の試合で、君が代を歌いながら胸に手を当てる当時の代表だったカズ(三浦知良)の姿は、ものすごくカッコよかった。